しょうたんブログ

独り身アラフォーメンタル弱めが道を探す(さまよう)ブログ

20201107やることをやっていれば、自分を認めてくれる自分もいる

朝、ジムに行って運動。

キャベツとか買い物も済ませた。

健康的な食事をしてシャワーを浴びて、二度寝

そうして気持ちよくなって、しかも冷静で自己肯定できている自分がいる。

別に無理はしていない。

楽に、習慣化できることをやっているだけだ。

20201107【重要】今、向かおうとしている方向は合っているのか

今、自分は何かに向かって進もうとしている。

その先で、自分はしあわせになれるのだろうか。

土曜日の午後、朝、トレーニングをしたあと、食事をしてシャワーを浴びて、

今、ベッドでゆっくり休んでいた。

安心院とか、宇佐方向に出かけようかとも思っていた。

でも、休んでみると、こういった客観的で冷静な時間が必要だと、

そういう風に判断する自分がいる。

連絡を入れないと何も変わらないんじゃないか?

そのための方向性に、自分は変われているのか?

そんなたいせつなことを言う声は、とても小さく、

起きて、別のことをやっていると、

吹き飛んでしまいそうだ。

それでも、

たいせつなことを語りかける自分が、自分のなかにはちゃんといる。

ただ、スマホタブレットを開いた瞬間、

そんな客観的で冷静な状態は壊れる。

必ずたいせつな声がある。

消えそうなくらい小さな声かもしれない。

でも、必ずそれが語りかけられる瞬間がある。

そこには、行きたい旅行、欲しい服、ガジェット、欲望にまみれた自分を内省し、方向転換する自分も含まれるし、

危ない行動に注意を促す自分も含まれるし、

そして何よりも、自分自身を肯定し、そして自己受容するたいせつなキッカケが含まれている。

20201106自分の人生にタイトルを

ちからをつけたい。

新しい知識を身につけようとするとき、

ひとは既知と未知を結びつけて理解する。

自分の能力を組織のために使いたくない、

それでいい。

そのほうが気楽で居られる。

そのかわり、アウトプットは全力で行う。

チャートの問題3分

初めての知識は、本を読むよりも、動画のほうが何倍も入ってくるから、

スタディサプリやUdemyを使って、うまく身につける。

楽しんでやる、

そこにやらされはない。

あとは習慣化、

毎日やる、繰り返し繰り返す。

惰性でやるのは人生、時間のムダづかい。

目的を持って、

タイトルを持って

東大思考からだけど。

自分の人生にタイトルを持って。

映画のタイトルみたいな。

20201106記録術は薬

今日は福岡に出張だった。

さざわさんに海鮮丼を奢ってもらったし、バナナミルクも奢ってもらった。

疲れがあったので、カフェかネットカフェでひとやすみしようかと思った。

何をするのが、効果的だろう。

さしあたり、バッグが重いのはキツイ。

こういう風に、ケータイメモがひとつあれば、のめり込んで打てる。

それが客観的であることの訓練にもなる。

あと、ひとの厚意を受け容れにくくなってきている。

だからこそ、文章を打つことを繰り返し訓練して、習慣とする。

その先に、どんな環境でも、たとえ集中してなくても、前に進める自分がいる。

気持ちの柔軟さ、

反応する自分を生かす。

感情を抑え込むのではなく、自分を出しつつ、それを効果的に変えていく。

そのためのきっかけとしての記録術、それは訓練して磨いていくもの。

20201103【修正済】反応的であること、それは相手に依存すること、でも目標は自立

目の前の物事に意識的になったり、反応的になったり、

そんな風になって、自立した人間を証明しようと躍起になるのは、

自立している状態ではなく、相手に依存している状態であり、

その状態では、ちからを身につけたとしても、心は満足を得られないだろう。

なぜなら、他者の感情は他者の課題であって、

自分が選択できるものではないからだ。

反応することは相手に依存することであり、その行動は自立を妨げる。

本当に自立したいのであれば、

原理原則を心に刻み、そこから自然に出てくる行動であれば、それを信じて疑わないことだ。

まず、自分の心の奥底から湧いてくる感情、感動であったり、心地よいと思う気持ちであったり、いろんなひとを受け容れてくれる環境の居心地の良さであったり、逆に、不安や怖さを感じることがあるかもしれない。

そういったことも否定せずに、

反応して、自立した人間であることを証明しようとして頑張ったりして、かえって何かに依存する気持ちを強めてしまうのではなく、

いろんなひとがそれぞれの生き方で生きている、そんなそれぞれのひとを受け容れてる環境の懐の広さを感じられる場所に行き、

そこで、一時停止しておいた不安や怖さは、原理原則の中でどうであるのか、そこで反応して何かに依存することがどうであるのか、

向き合ってみるのもいいかもしれない。

それを繰り返していれば、きっと何かが生まれてくると思う。

多くのひとを満足させられるようなことをどれだけ効率的にできたとしても、目の前のたいせつなひとりと人間関係を築ける人格が育っていなければ、何の意味もない。

20201103反応的であること、それは相手に依存すること、でも目標は自立

目の前の物事に意識的になったり、反応的になったり、

そんな風になって、自立した人間を証明しようと躍起になるのは、

自立している状態ではなく、相手に依存している状態であり、

その状態では、ちからを身につけたとしても、心は満足を得られないだろう。

なぜなら、他者の感情は他者の課題であって、

自分が選択できるものではないからだ。

反応することは相手に依存することであり、その行動は自立を妨げる。

本当に自立したいのであれば、

原理原則を心に刻み、そこから自然に出てくる行動であれば、それを信じて疑わないことだ。

まず、自分の心の奥底から湧いてくる感情、感動であったり、心地よいと思う気持ちであったり、いろんなひとを受け容れてくれる環境の居心地の良さであったり、逆に、不安や怖さを感じることがあるかもしれない。

そういったことも否定せずに、

反応して、自立した人間であることを証明しようとして頑張ったりして、かえって何かに依存する気持ちを強めてしまうのではなく、

いろんなひとがそれぞれの生き方で生きている、そんなそれぞれのひとを受け容れてる環境の懐の広さを感じられる場所に行き、

そこで、一時停止しておいた不安や怖さは、原理原則の中でどうであるのか、そこで反応して何かに依存することがどうであるのか、

向き合ってみるのもいいかもしれない。

それを繰り返していれば、きっと何かが生まれてくると思う。