210926快について
今、自分は苦しみを感じている。苦しみの原因は、執着であり、妄想である。
執着とは、欲のことです。
執着とは、快を得たいという思い。
承認欲もそれにあたる。
モノを持ちすぎるのも、承認欲や物欲を充たして快を得たいという心の働きによるものです。
でも、快を得たいという思いは、同時にそれが得られないという、
いわゆる不快な感情を生み出す原因でもあります。
だからこそ、快を求めることには、注意が必要だと言えます。
今、僕は、人間関係がうまくいかず、家では大量のモノに囲まれ、ベッドの上で横になるばかりで気が晴れず、
身動きがとれずにいます。
なぜ、そんなに大量のモノに囲まれてしまったのか、
それは衝動買いによるもの、
そしてその衝動買いは、認められない自分への焦り、もっと自分を認めて欲しい、という承認欲からくるものです。
クレジットカードで買うため、お金を払ったという実感がなく、翌月翌々月に請求が来るという状態で、今はまだそこまではないですが、これを繰り返すと、身を滅ぼしそうな気がします。
身近なひとが、そうやって、幸い仕事に就いていたので自己破産までには至らなかったのですが、任意整理をしたのを目の当たりにしたのですが、
歯止めがなければ、自分も同じようになりそうな気がします。
それで欲が充たされているのであれば、少しは救いになるのかもしれないですが、欲は充たされてないばかりかお金を失い、それでも残る借金からくる不安で、顔には陰があり、身も心もボロボロといった感じでした。
宮部みゆきの『火車』の中に、真面目なひとほど、このスパイラルに嵌まっていき、命を断つ、というようなことが書いてあったのですが、
その身近な人もごく普通の、そしてどちらかと言えば、真面目なひとです。
。。
話を戻すと、快を承認欲や物欲から求めようとすれば、その代償は、思うよりも大きいものになる可能性があるということです。
そして、快はそういった承認欲や物欲からだけではなく、感覚などからも得ることができるということです。
たとえば、暑い外からエアコンの効いた室内に入る、寒い冬の日に温かいふとんに潜り込む、汗を思いっきりかいたあとキンキンに冷えたアイスを食べる、サウナで熱を帯びたカラダを水風呂に入って冷やす、など。
これらは、脳が、差を検知することにより快を得る、という方法で、ちょうど、佐々木典士さんが『ぼくたちに、もうモノは必要ない』で書かれていたことに通ずるものがあると感じています。
また、これらは、快を得るとともに、 一時的に不快な感情を引き剥がす働きもあるようです。
たとえば、サウナから水風呂で一時的に疲労がとれたように感じたり。
これは、ひとが意識を、同時にいろいろなことに向けることが苦手だからで、それを利用したものだそうです。
だから、不快を感じたときは、あえて感覚の差を生み出すような状況に身を置くのも、ひとつの方法かもしれません。
もうひとつ、快を得られる場面として、『人間的なつながりを感じたとき』というのが挙げられます。
樺沢紫苑さんが、著書やYouTubeで言っておられますが、
快楽には、ドーパミン的快楽とオキシトシン的な快楽があって、つながりによる快楽は、オキシトシン的な快楽にあたります。
この『人間的なつながり』からもたらされる快は、草薙龍瞬さんが言われる『正しい生き方』にもつながっていて、
反応しない練習のなかでは、子に家を追い出され、人生に絶望して命を断とうとしていた老いた女性が、ボランティアとして介護施設の手伝いをする中で、
『人間的なつながり』を感じ、生きがいを見出だしていくというエピソードがあります。
このエピソードに感化され、僕は立ち寄った田舎のうどん屋さんのおじさんおばさんに、閉店時間間際でお客さんが僕だけだったので話かけ、野球の話や、飼ってるワンちゃんの話で盛り上がり、
そこで、食事も大切だけど、それ以上に、ひとが生きていく上で大切な、人間的なつながりによる快がたしかに得られていること、そしてそれが、すごく心地いいことを感じました。
ここまで、快について述べてきましたが、
『これも修行のうち』には驚くべきことが書いてありました。
それは、
『快を求めてはいけない』ということ、
『ニュートラルこそが理想の状態』だということです。
たしかに今の僕の状況を見回すと、問題を起こしているのは、快を求めてネットショッピングを繰り返したり、承認欲を充たそうとして本を買って読んだり勉強したり、、
いずれも快を求めて自分を追い込んで、お金も使って、モノも散乱して身動きとれなくなって疲れて、ベッドから動けなくなって。。
やってることといえば、スマホに手を伸ばし、野球の途中経過を見たり、YouTubeの動画を観たり。
意識的ではない反応を繰り返してる状態。
そんな、意識を、自分のやりたいことに向ける方法も書いてありますが、
まずは、この、快を求めるところから始まった不快の連鎖を止めること、
そのために身に回り、心を調えること、
それが今の自分がまず取り組むべきことだと、この本を読んで思いました。
まずは手放すこと。
モノを、ドーパミン的欲求を、
そしてこうしたいこうなりたいという希望を。